掃き溜めのコルクボード

「好き」を言葉に

モノガタリを生みおとす


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 こんばんは。空峯 千代です。

 午前中、電車に揺られながら字を打っていますが、おそらく投稿は夜なので「こんばんは」としておくね。

 

 

 

 さて。私はブログをよく書くのだけれど、今年の春からは物語も書くようになりました。

 

 

 

 幼い男の子のぼくと黒猫の物語「ぼくとマンソン」を皮切りに、ちょこちょこ話を書いては「ちよ文庫」(はてブロのもう一個作ったサイト)やnoteに投げてます。

 数えてないけど合わせれば10作くらいはある、はず。たぶん。

 

 数はよく覚えてなくても話の1個1個はしっかり覚えてる。

 そりゃ、作品は子どもみたいなもんだから。

 

なんなら設定資料もファイリングしてあって課題のレポートよりもよっぽど厳重に保管してある。作品が子どもなら相当な親馬鹿だよね。

 

 

 

 私が物語を書く時は大きく分けて2とおり。

 身の回りの出来事や呑み込めない感情を思うままに書き尽くすとき。

 それと様々な素材を混ぜ合わせてパズルのように形作っていくとき。

 

 コロナ禍でわちゃわちゃしてた時は前者が多くて、最近は後者に寄ってきた。

 どちらにせよ、ぼーっとしてる時やシャワーを浴びてる時(1番多い)にパッと閃いて、そこからアイデアを繋ぎ合わせて物語にするのが基本スタンス。

 

 他の人がどんな作り方してるかはともかくとして、閃いた時に浮かんでくる、映像みたいに何枚かの絵になって流れる頭ん中の光景をそのまま文章にする。

 

  ちなみに前者の場合は物語がすべて強烈な映像として「見える」のでメモ書きせずにサラサラ終わりまで書き切っちゃったりする。かなりデタラメな書き方。

 

 後者の場合は直近で読んだ本や観てた映画、出来事や人・物を素材としてパッとアイデアが浮かんでくる。ので、それを上手い具合にパッチワークして文にする。こっちは設定を紙に書くしプロットも作る、オーソドックスなやり方。

 

 あと書いてる時はイヤホン装着で同じ曲をエンドレスにして勉強机の椅子(ゴロゴロする車輪が4つ付いてるヤツ)に座ってる。このフォーメーションが1番集中できる。お気に入り。

 

 こうして時間がどれくらい経ったかわかんないくらいチャカチャカ執筆してたらお見事!物語がひとつ生まれるわけです。

 

 

 

 ただ物語を書く時はブログを書くよりも消耗するカロリーはたいへん大きい。

 文章とはいえ世界をまるごと1個生み出してるんだから。当然と言えば当然の話ではある。

 それでも「書きたい」と思うのは話の中でなら自由だから。

 

 例えば、なりたい自分が10人あるとして、だ。

 1つの人生で1人分の生き方が出来るなら、10回人生やらなきゃ全部の自分を体験できない。

 それが物語の世界ならなりたい自分になれるし、どんな自分でも構わない。

 

 想像の世界に限界はない。だから肯定も否定もされなくても存在することは出来る。

 思うことや考えることは個人の自由だから。

 

 漱石の「三四郎」で、熊本からやってきたばかりの三四郎が聞いた広田先生の言葉。

 

「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より・・・・・・」(中略)「日本より頭の中のほうが広いでしょう」。

 

 まさにこれ。

 

 世界一周よりも頭ん中を探検する方が何倍もむずかしいんじゃないかな。

 

 目に見えない分、余計に訳がわからないし。

 

 だから文章で輪郭を描いて、さらに文章で中身を詰め込んで、エピローグで蓋をしてポンと1個のタマゴにしちゃうのが楽しいんだろうね。

 

 ひとつの世界を産みだす楽しさ、形容しがたいものを形にする喜び、瞬間に湧き上がる感情を流し込みたい焦燥。

 そして物語を作ることで源となる「自分」が形作られていく感覚。

 そういうもののごちゃ混ぜで私は物語を生んでいます。

 

 

 最近はハッピーエンドを願う「絵馬語シリーズ」や名前に鳥の字が入ったキャラクター達がドタバタ動く「鳥類シリーズ」など、シリーズ物ができるくらい世界が広がっています。

 

 おそらく私でも予想できないくらいに広がりつづけるだろうと思います。

 どれも短い話だから「寝物語がほしい」「なにか話が読みたい」 と感じたら読んでみてほしいな。