掃き溜めのコルクボード

「好き」を言葉に

私が物書きである理由


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 4月頃フォロワーに教えてもらった小説、「僕が僕をやめる日」「この闇と光」をつい最近読んだ。

 

 

 文章もさることながら、なかなか親近感の湧く物語で面白かった。

 読みやすいし続きが気になって先に先にページをめくっちゃうから皆にもぜひ読んでほしい。

 

 

 小説、といえば。

 

 

 6月に入ってから物語を書くことが増えた。

 相変わらず短い話ばかりだけれど、どれもこれも自分なりに試行錯誤して生み出した。我が子みたいな存在。

 

 

 思えば、私の文章は読書量の結晶だ。

 「どれくらい読んだのか」と聞かれれば困るけれど、とにかくたくさん。

 食べたパンの数を覚えていないように、読んだ本の数を覚えていないから。

 明確に何冊読んだか記憶にはない。ただ面白かった本も、つまらなかった本も、どんな本も私を形づくる血肉になっていることは確かだ。

 

 

 それと、たまに私を「字書き」と呼ぶ人がいる。

 細かいことかもしれないが、食べる気分じゃない時に出された料理のような、なんとも言えない""これじゃない"'を感じるのだ。

 

 

 私は「物書き」を自称している。

 表現したい事「物」を「書」くことで作品に昇華しているから「物書き」。

 

 

 もっと細かいことを言うと習字や書道で「字」を表現する人間を「字書き」と言うならわかるけれど、文章を書く人間を表すなら適切じゃないと思う。

 なぜ「文書き」(読み方は「ふみかき」あたり)じゃなくて「字書き」なんだろう。イマイチ納得いかない。

 

 

 話が逸れてしまったけれど、繰り返して書くが私は物書きである。

 文章を書くために筆を執るのではない。

 表現したいことがあるから筆を執っている。

 

 

 文章を書く理由は人それぞれ。

 記録として残したい、感情を消化したい、誰かの日常に花を添えたい、誰かの心を揺さぶりたい。

 私はそのどれも素敵だと思うし、私自身そのどれにも当てはまる。

 

 

 その時に自分が何を想い、考えていたのかを形にして残したい。

 胸のうちにある怒りや悲しみ、心に渦巻く感情を作品にすることで""美""としたい。

 私の書いた文章を誰かにとっての安寧や癒しになるような心のグリーンにしたい。

 私の書いた文章を誰かの心を穿ち、爪痕を残すような渾身の一撃にしたい。

上に挙げたすべてが私の物書きたる理由である。

 

 

 とどのつまり、私は""自分でいたいから""文章を書いている。

 自分を大切にできる自分でいるために。 いつだって美しくいられる自分であるために。

 誰かにとって癒しとなれるような自分であるために。誰かの心を震わせることができるような自分であるために。

 そんな自分になりたいが為に筆を執っている。

 

 

  もちろんこれからも文章をたくさん書く。

 メモ帳の欄にはまだ書いていないブログのネタや物語のアイデアで埋め尽くされている。

 いくつか立てた目標もまだ達成出来ていない。

 もし「あなたの文章がきらいだから書くのをやめてほしい」と言われても私はやめない。今までだって私は立ち止まらなかった。まだ言の葉に満ちた世界で歩いていたい。

 

 

 おそらく私はずっと表現すると思う。

 思考の波を絶えず書き尽くして、すっからかんになるまで筆はきっと止まらない。

 どうせ書くなら読む人も書いた私自身ですら息を呑んで夢中になってしまうような、美しく透明で読む人の心を攫ってしまえるような、言葉の力に圧倒されて臆病にも勇敢にもなれるような。

 

 

 そんな文章を、私は書きたい。